部屋には何も残っていなかった。何も、というのは、私と銀時が善い関係だった頃を思い出させるようなものを示す。しかしテレビやソファ…確か昔もこれを使っていたような気がして少しだけホッとした。ふと、窓の外を見ると日が傾き出していた。鏡のように反射して窓に映る私の顔は、少し化粧が崩れてしまってみすぼらしかった。それだけならまだしも、この顔にこの服だ。そう考えると、余計に歳をとった気がした。

「銀さんが、亡くなりました。」
新八くんから聞いたのは、銀時が亡くなって1週間が経った頃で、やっと私の連絡先を見つけ、すぐに電話をしてきたらしい。その証拠に、私の携帯が鳴ったのは夜中の2時を回った時だった。夜中にも関わらず、その時私は新八くんにいろいろと問い質した。
いつ亡くなったの、どうして、なんで、。
同じような質問を繰り返して言葉が出なくなった私に、新八くんは言った。
「銀さんの恋人と、あのマンションで、亡くなって、いました…」
悪気のない新八くんに、とどめを刺された気がした。


2、3日前の事を思い出し、随分と堕ちてしまった気分を晴らす為に、私が映っている窓を開けてベランダに出てみた。昨日は夏のように暑かったのに、今日はやけに肌寒い。風が頬を掠めると、身震いをしてしまうほどに。そしてマンションの7階は風が強かった。以前、私と銀時が暮らしていた時と何も変わっていないような風が私を包み込む。肌寒く、身震いをしてしまうほどなのに、懐かしい温もりを感じた。
ふと、私が使っていた部屋を思い出し、窓を閉めてそちらへ向かった。多分…―、と思いながら扉を開けると、そこには私の知らない女の部屋があった。私の部屋の面影は一切なく、少し考えただけで一緒に亡くなった彼女のものだと判った。理解した上で、扉を静かに閉めた。

この部屋の隣は、銀時の部屋だ。この際だから、と呟き扉を開ける。1秒もしないうちに銀時の匂いが私を包み込んだ。

「ぎん、っと…」
懐かしい匂いと、ほとんど変わっていない部屋模様に、息を飲んだ。そして自然と彼の名前を口にした。しかし、酸素が足りていないのか、上手く発音が出来なかった。

「あ、」と、白い布を被せられた大きな物を見つけた。部屋へと踏み込み、白い布を剥がした。
「…ピアノ」
それは、二人でよく弾いたピアノだった。中古店で一番安かった、おんぼろピアノだった。銀時が私の誕生日に買った、大切にしていたピアノだった。
「まだ残してたんだ」
椅子に座り、鍵盤に指を乗せてみると、また昔の記憶が蘇る。そっと鍵盤を押すと、通常の音よりも何音か下がっている音がした。以前よりも音が下がってしまったピアノは、離れていた時間を示すのだろうか。

「覚えてる?好きだった曲。」
誰もいない部屋に、私のか細い声が響いた。答えてくれる人物は誰もいないにも関わらず、話を続けた。
「懐かしいね。5年経っても元カノのピアノ持ってるとか、今のカノジョに怒られなかった?」
段々と虚しさが増して、言葉が見つからなくなってしまった。そのかわりに、私は昔銀時好がきだった曲を弾いた。5年も前の曲なのに、少しも古臭く感じない。ただ、5年も前の記憶だ、あやふやな箇所があり、上手く弾くことは出来なかった。間違える度に「あっ」と声を上げた。
5年前なら、後ろから銀時が「へたくそー」と笑いながら和ませてくれたのに、今はただのへたくそで虚しいだけだ。何秒かして、下手な指遣いを止めた。曲の途中から、どうしても思い出せなくなってしまったからと、涙がとめどなく流れてしまっていたから。

「銀時、あた、し来年結婚するの」
また誰もいない部屋に言った。その間にも涙はぼろぼろと落ちていく。
「あたし、銀時じゃなくて、も幸せ、よっ」
そっと拭うと、マスカラやらアイシャドーやらが色を濁して手に着いた。
「だから、カノジョさんも、銀時も、幸せに、なってよ、」
そこまで言うと、声を上げて泣いた。涙も声も枯れてしまえ!と泣いた。しかし、日が完全に落ちてしまっても涙と声は枯れずに残った。赤く腫れた目と濁った涙が落ちて汚れた黒の喪服は凄く格好悪かった。それでも、この哀しみに決着を着けなければならないと思ったのは、どうしてだろう。重たい体を引きずって、玄関に立った。

「さよなら、銀時」

私の声は小玉することなく、壁に吸い取られるように消えた。








20070923