薄暗くて、本がいっぱいあって、埃っぽい酸素と、彼が吐き出す煙という名の二酸化炭素。それらは一見、汚さを見せつけるが私にとってはどうだろうか。彼を見てきて慣れを知り、たいして気になるものではなくなった。それどころか、私の頭の中に侵入して何度も何度も彼の姿を想像させるようになった。未だに、この部屋では深呼吸ができないのだけれど。


「銀八せんせ。」
窓から外を眺めながら煙草をふかす彼は、太陽の光を浴びていつもより眩しかった。そんな彼は、目を細めていた私に「どうしたーそんなに先生が輝いてみえますかー?」と、いつものやる気のない口調で言った。ああ、今輝いて見えたのは光のせいなのだと自分の心の中で呟いた。

「せんせー、プリントできたよ。」
ガタンと椅子をずらして席を立つ。ほら、と言って彼にプリントを渡すと、また、やる気なさげに煙草を咥え「おーちょっと待ってな。」と、私が向かっていた机まで行った。赤ペンで採点をする姿は、気だるそうにしていても先生なのだと思わせる。私は極力視野に入れないようにしてきた。今日もグラウンドで練習をしている部活動を見ながら、紙とペンの擦れる音を聞いていた。

数分して、その音が止んだ。振り返るとペンにキャップをしながらプリントを見る彼の姿があった。じっと見ていると、彼はニンマリと笑っていることに気が付いた。「どうしたの?」と、彼のもとに行くとプリントを指差しながら「これこれ」と言った。

「お前頑張ったなー。クラスで国語ドベのお前が、補習でここまで立ち直るなんてよー。」

「だって、せんせーが教えてくれるんだもん。」

「おい、授業担当してんの俺なんだけど。」

「それとこれとは別なんですー。」

「なんだよ、それ。」

彼は呆れたように私を見て「やればできんだろーが」と言った。その通りだ。私はやればできる子だ。決して好きで勉強をしているわけではない。どの教科もそれなりにやって、それなりな点を採っているだけだ。本当のところ、国語だってそうだ。けれど、彼が国語の担当になってから私は国語の授業が好きになり、それと反比例して国語のテストの点数が徐々に落ちていった。これはどうしたことかと自分でも思った。ちゃんと彼の話を聞いて、見ていたのに。50分の授業の中、私はずっと彼を見てその仕草を目に焼き付け、声を耳に残そうとしていたのに。自らの思いに気付くには、たいして時間は必要なかった。ただ、それからというもの、心の中に淡いカタマリがあってどんなに笑ったって泣いたってそれは消えることがなかった。


「ねえ、せんせ。」

心の中の淡いカタマリを感じながら、呟くように言った。「ん?」と、ただそれだけの仕草に、ぎゅっと歯を食いしばる。愛しくて、恋しくて、今にも彼に好きだと言ってしまいたいのだけど、生徒という名の私がそれを止める。

「隣のクラスの可愛い女の子がさー、先生のこと好きって言ってたんだよ。」
辛うじて発した言葉は、上手く声になっていただろうか。好きという単語を言ったときの私は、冷静な顔をしていたのだろうか。不安になりながらも笑顔で先生の顔を窺った。

「ふーん、誰ですかそれは。さん、正直に言ったら先生の大切な苺キャンディーをあげるぞー。」
煙草片手に顔をキリっとさせて彼が言った。その冗談が何気なく私に突き刺さった、気がした。
「先生の冗談、冗談に聞こえないからやだー。」
こんな言葉でしか返答ができない私は、可愛くないのだろう。それでも、この埃っぽい空間に2人きりでいるということ、彼を独り占めしているという優越感でこの思考が塗り潰されてしまう。

「んなこたねえよ。先生の冗談は健全なじゃぱにーずジョークだっつの。」

「どんなジョークだっつの。」


けらけらと笑いながら彼と会話をしていると、いつの間にか時計の短針が6と7の間を指していた。私がそれに気付くと、彼が腕時計を見た。次に放たれる言葉を、筆記用具を片付けながら想像する。多分、「もうそろそろ帰れよ」とか「俺、そろそろ帰るぞ」とかだろうと思い、私は鞄を手にし、席を立った。

「そろそろ帰るか。あ、ドラマの再放送・・・くそー。」

「ごめん、せんせ。こんな時間まで付き合ってくれて、ありがと。」

そそくさとドアの前まで行き、振り返り煙草を灰皿に押し付ける彼に言った。「おお、明日な。」と言う彼は、右手を上げて私を見送った。

彼は私の思いをまるで知らない。
(ドアを閉めた後、深呼吸をして彼を思う。)



2007.07.25